★★★ メイ・サートンのプロフィール ★★★

 ★★★ メイ・サートンのプロフィール ★★★
 1912年、ベルギーに生れる。4歳のとき両親とともにアメリカに亡命。
マサチューセッツ州、ケンブリッジで育つ。父は著名な科学史の学究として、ハーバードで教え、イギリス人の母は画家、デザイナーでもあった。若くして劇団を主宰するが、やがて、1938年最初の詩集を出してより、著作に専念。多くの詩集、小説や自伝的作品、日記、を発表。

 1973年、両親の遺産をもとにニューハンプシャー、ネルソンに30エーカーの土地と老屋を買って住み、発表した「独り居の日記」で、脚光を浴びる。やがて、メイン州、ヨークの海辺の家に移り住み、83歳で死ぬまで、次々と20冊に及ぶ作品を発表。女であること、芸術家であること、の自覚をもって、女にとっての創造の源泉を探り、真実に生きることの意味を問い続け、自分自身である事の勇気を語り続ける著作は、多くの読者を得、「アメリカの国宝」とまで絶賛されているという。1995年、ヨークの病院で死去。

 翻訳によって彼女の作品を最初に日本に紹介したのはアメリカ在住の武田尚子さんで、「サートンによって世界を見る新鮮な目を与えられ、生きる勇気を与えられるに違いない多数の読者の存在することを、確信している」とあとがきに書いておられるが、事実、日本語版「独り居の日記」は、その後も地下水脈のように愛読者が絶えず、15版を重ねているという。私がこの本と始めて出会ったのは1991年の暮ごろ、出版の約1ヵ月後、大阪、梅田の旭屋書店だった。ふと手に取り、読んでみてすぐ購入した。渇いた者が水を飲むように・・。以来この書は私の座右の書となっている。

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2011年1月13日木曜日

 「海辺の家」は「独り居の日記」に続くメイ・サートン3冊目の日記で、1977年に出版されている。
 大好きだったネルソンを手放して、メイはなぜこのメイン州の海辺の家を友人から借りて住む決意をしたのだろうか?
 最初の兆しは既に「独り居の日記」の四月二十一日の記述に見られる。
 訪れてきた二人の友人、画家のビヴァリー・ハラムたちがメインの海辺に買った地所に建てた家の話に、メイは心を動かされている。メイは実際にその家を見に行っている。
  ”変化の時である”。与えられたこのチャンスに彼女は”心を躍らせている”このあたりの詳細な記述はどうか日記で実際に味わって欲しい。
 人生で誰にも一度はおとずれるであろう転機を、メイはどう受け止めて行動したか。友人たちの支えをどのように受け止めて心を決めていったか、が実に詩的で美しい言葉で、直截に生き生きと綴られていく。

2011年1月10日月曜日

回復まで

メイ・サートンの日記「回復まで」を読む。
1978年のクリスマスにはじめられたこの日記は、三冊目。
愛する女友達ジュディの老耄という悲しい現実に直面する辛い叙述で始まる。

サートン66歳、ジュディ81歳?。ジュディは既に七年前から、老人ホームに住んでいるが、

クリスマスをともに過ごそうと、サートンは迎えに行く。
しかし、結果は?家族同然に慈しみあった友は、いまや「坂を転げるように衰えて」ゆき、
「いっしょにいても何の意味もない遠くへ去ってしまったことを悟らされる」・・・。
 
サートンは翌年六月には、乳がんのため、全摘手術を受けている。

「回復まで」という表題が、当然のことながら、肉体的な意味ばかりではないことを、
時に応じ、深く感応しつつ読みすすめていきたい。

ENDGAME(3)5月28日〜6月6日

◆そして五月二十八日  月曜日 メモリアルデイ◆
 昨日は壮観な日だった__私は三度目に寝室の窓に差し込む太陽の光で目覚めた。

輝きと希望にあふれた素晴らしい花のようにその日が明けた。十一時半にスーザンシャーマンが
ニューヨークからずっと車を運転して到着した。私とランチを共にするために。
それから私にセンテナリー カレッジの卒業式の学帽の美しい青と白と黒の垂れ布を持ってきてくれ、
そして私の名誉学位の引用文を再度読み上げて彼女は私に差し出してくれた。
アンジェラ エリオットは卒業生への講演で私の作品を取り上げ彼女の評価を感動的な言葉を織り込んで
卒業式の演説とした。この十六回目の栄誉ある日に出られなくて、悪かった。


センテナリ―カレッジは学生たちに私の作品を常に参照してくれているので、私にとっては一般的な
場合よりもっと関わりが深いのだ。私の代わりにスーザンが行ってくれて、本当に感謝している。
彼女はこれら大学からの表象を持ってきてくれただけではなく素晴らしい黄色の壷と

変わった深いピンクローズ色の壷を持ってきてくれた___これらの甘美な珍しいお祝い品が家中に溢れた。
彼女はクレームブルレカスタードやメリンゲそしてチーズとフランスパンをもってきてくれた。

 そうこうする中 二代目シベール彼女のうっとりするような小さなプードル犬だが驚いたことに

白いちちれ毛の中から濃い茶色の目で外を見ながら、車の中の金色のベッドで待っていた。
私は急にこの小さな生き物が自由に駆け回るのを見たくなった、なぜならニューヨークでは、
綱を決して外してもらえないんですから。スーザンは少し戸惑っていたが、放してやった。
すると突然この綿毛のボールは弾かれたように芝生の上を駆けまわり家の裏のテラスのあたりまで巡って、
喜びに酔っていた。それは私にも純粋なよろこびだった

 私はスーザンをキテリーポイントにあるキャピテンシメオンのギャラリーへつれて行った。

近ごろここは私のお決まりの場所になっていて一人でも手紙を読んだりするが、たいていは友達とくる。
波止場の沢山のボーとや少し離れたところの二つの燈台を座って眺めているのがご馳走だ。


◆五月三十日  水曜日◆
 あんなに素晴らしい週末だったのに三日続いて天気は良かったし、スーザンと素敵な時を過ごせたのに。

昨夜はどうしてきりもみで落ちていくように落ち込んでしまったのだろうか?
ここ何カ月か決して良くならない。それは私に家族を持っていない惨めさが荒々しく
襲いかかってくるからなのだ。休日,殆どの人が家族と過ごす時除外感や喪失感が格別強い。
勿論、大変不合理なことだけれど。

 私がこどもだった頃家族の直系の養子となっていた。だれが私を養子としていたのか。

これらの中では まず第一はボンボンベークランドだ。ヨンカーズのポーチに座って彼女と一緒に
豆の皮むきをした。バスターとテデイがそばに座っていた。コプリングリーンの“フランク伯父さん”は
ローレイで夏を過ごした間にポニーの乗り方を教えてくれた;
ベルモントの湖畔のアーネストホッキンスそこでは、大きな声でデイッケンスを読んでいたのを聞いた;
勿論ベルギーのリンボッシュ家何年もそこで家族を持っていた___何時でもそこへ一カ月でも帰って
こられた。そして家族の子供として歓迎された。私は家族の生活は外部の者が考えるほどたやすいもの
ではないことに気がついた。ジードの“私は家族がきらいだ”とは家族生活からかけ離れて生きてきて
敵対者のようになった苦しみからほとばしり出たものだ。私のように家族の養子になったものは
対価を払わないということにも気がついた。


◆六月二日  日曜日◆
 これはたぶん単純なことで、ポイントは家族とは受け止めてくれるところなのだ。

“家庭はあなたがどこにいようが、いつでもそこに行かなければならないし、またあなたを
受け入れなければならない“とロバートフロストが言っている。
それで病気になったとき兄弟姉妹を持たないことがひどく堪える。


◆六月六日  水曜日◆
 私の心臓はうんと良くなったペトロビッチ先生を喜ばせた。息もたやすくできるし、よく眠れる。

しかし何時も驚くほど疲れる。昨日は朝食の後十一時までベッドで眠った。
それでもふらつくのでナンシーに手紙をとり行くのに運転してくれるように頼んだ。
この疲労から来る日ごとの挫折はどうしたらよいのだろうか?

今朝から新しいやり方でやり始めた。朝の方がよさそうなので一時間ほど机の前に座れるだろうと思う。
今八時だ。いつものようにピエロが外へ出たいとニャーニャーなき、外へ出してくれとベッドの私に
言いに来た。それはなんと三時四十五分のことだった!
急いで一階に降りて行きドアを開けてやり二時間かもっとベッドに戻れるのが嬉しかった。
六時十五分位までを目標に。

新しい真っ青なお天気。小鳥は頭がちぎれるほどさえづり続ける。
そこで私は下に降りて行きピエロを入れてやり餌をあげ、小鳥の重い餌台にえさをいれて吊るした。
それから私は自分の朝食の用意。コーヒーに入れるミルクを温めマフィンをオープントースターで温めた。
窓辺の植物に水をやらないではいられない、水無しでは人が弱ってしまうように枯れてしまう。
それから___これが新しく始めようと思っていることだが___二階ヘあがって
風呂に湯を張っている間にベッドを作る。


ベッドメイキングは近頃とても体力を消耗させるので、私は風呂でリラックスしてから、
着替えようと考えた。そうやってから下に降りて丁度七時過ぎぐらいに朝食をとる。
ツデイズショウをみながら静かな半時間やそこいらをすごせる。___随分たくさんのことを成し遂げて。
それでも昨日のように八時まで横になるほどうんと疲れたりしなかった。
ナンシーと私は多年草を探しに行くつもりだ。楽しみなことだ。あまり暑くもないし素晴らしい日だ。

庭では大ニュースがあった。ダイアンが一年草の庭を掘り起こし日曜日に一年草の種を

全部まいてしまっていた。この仕事は何時もナンシーの助けを借りても一週間もかかっていた。
ダイアンがたった二日でやってしまうなんて驚きだった。ものごとは彼女の管理下で動きだし、
外の水にはホースがつけられた。

今の時期庭は綺麗だ、多年草の垣根として二年前にアイリスを植えたのが本当に美しい支柱はいらないし、
ほかの背の高い植物より上手に冬を越してくれた。
今魅力的なのは大きな紫色のアリアム(ねぎ)で境界線に沿って散らばっている。
それらは荘厳で驚かせるアクセントでもある。

ENDGAME(2)5月7日〜5月24日

◆五月七日 月曜日◆
 今朝早くピエロを中に入れてやろうとしたら(ピエロはいつも五時に外に出たがる)また雨が降り出していた。

憂鬱な雨ふりばかりの春だ。毎日、毎日 雨と風 庭にはいいかもしれないが表に出たい我々には
つらいことだ。ときどき私はどうしてメインになんか住もうとしたのかと思うことがあるが
ときには理由を思い出させてくれることがある。
しかしあの五月三日は穏やかな日だった。
一軒の花やが三度も四度も配達してくれたので、午後遅くに最後の花を届けに来た中年の女性に

少し戸惑いながら“今日は私の七十八歳の誕生日なもので”と言い訳をすると
“お友達はあなたが自分の誕生日をわすれないようにと、おもってくれてるんですよ。
そうでしょう?“この純粋のメインっ子のことばは本当にうれしかった。

だから私はメインに住んでいる。この辛辣なユーモアのセンスが私にはいい薬になる。


◆五月九日  水曜日◆
 毎秋私は小さなゆり科の球根(フリチラリー)を植える。しかし一つか二つしか花をつけない。

根がどこにあるのか小さなひげがあったりなかったりで見つけるのがとてもむづかしい。
今年は三つか四つ花をつけた。奇跡だ。私は二本をつんで、青い花瓶に挿した。
これはパット チャセイのお祖母さんの宝もので彼女の家族からの贈り物である。
私は彼女の自家製のカスタードを毎週届けてもらっていた。私の誕生日から家の中はこれらの
小さな贈り物で一杯になった。これらは私の心の良い薬だ。

これでもう六カ月 あまりにも衰弱していたので仕事をしていない。手紙一通書くのにも

大変なエネルギーがいる。これはきっと心臓の薬のせいもある、私をマルハナ蜂のように、
物憂くしてしまう。しかし少しは良くなった。このように文章が書けるのだから。
一カ月前は出来なかったことだ。


私のフリチラリーへの思いは第二次世界大戦の前、まだ英国にいたときにまでさかのぼるあの花を
初めて見たときにすっかり魅せられてしまった。タンブリッジ ロック近くのペンシン ザ ロックスの
ドロシーウエルスレイのところだった。
車が古く低い石の橋を揺れながら渡るとき両サイドにあの牧場が見えてきて何百もの可愛いベルを
つけた花を見た。一本の茎に変化にとんだベルの花びらが揺らいでいた。あれが奇妙な幻想的な週末の始まりだった。

◆五月 十三日  金曜日◆
 一番の大事な日の母の日 降り続く酷い雨の日だ。起き上がりたくなかった。ピエロはちょうど四時過ぎに

外へ出てゆき頭からしっぽまでずぶ濡れになって帰って来た。それから朝食をとるとまた外へ出るとせがむ。
私はベッドへ戻り半時間ほどで起き上がってみると、案の定悲しそうな鳴き声をたててドアの前で待っていた。
酷い疲れと倦怠感との戦いが毎日続く。その日のことを書きあげるのに四日もかかる。仕事はすべてやり遂げるが、

日記だけは冷酷なプレッシャーとなって日常の仕事として組み込めない。ドクターギルロイにそのことを言うと
“それがあなたの治療になるんでしょう、私はそう思いますよ” 
それに多くの友達も同じことを言う,でも誰も一行書くにもこの努力がいること知らない。
私はマイクロレコーダーを使いたい、ポーツマスまで行つて買ってくる元気があったらと思う。町まで
出かけられたのはもう何か月も前のことだ。まあ昨日はこのヨークでスニーカーなどを買ったが、大変な出来事だった。

昨日は素晴らしい春の日だった。青い海、緑の草原、ああみんな、私は白いすみれを摘んで小さな花束を作った。

突然すみれたちは特に垣根に沿った境目の空き地一杯に広がってきている。庭は豊かさにあふれている。
たとえば谷間の百合等、でもこのおどろくほどの過酷な十二月の寒さで失われたものも多かった。
白いブリーヂングハートは何箇所かで生き残っているし、アルダシャープが去年の誕生日に
ウインターザーから下さった青い紫陽花も生きている。
この花はザークの島に二人で一緒に旅行したことを思い出させてくれる。
私はその二年前に一人でそこへ探検に行った。


そしてアルダはこの花が好きだろうという予感がした。われわれはここで、牧場のブールベルやプリムローズに
囲まれてピクニックをし、はるか下の方を飛んでいるカモメを眺めながら高い崖の上で
ベアトリスポッターデイを過ごした。

◆五月十四日  月曜日◆
 この頃は楽しいことが時たまあるのだが、すぐ忘れるし次に起きたことも又忘れてしまう。

それはまあ仕方のないこととして書きとめることもしていない。 只今は二つの木彫りの鳩が
くうくうと絶え間なく鳴いている。
激しい風で海は波立つ。こんな日に鳥もいないでは どんなだろうか? 窒息する様な静けさだ。

しかしまた 餌台を出たり入ったりの鳥の絶え間ない動きが空気を生き生きさせてくれる。

ときには二十羽もの金色の鷽が群がってやってきて、安全にこんなにおいしく用意された餌台にむかっていく。
紫色の鷽や五十雀(ともに小さく白くて胸毛がピンク)キツツキ(毛が多くふかふかしている)四十雀,
つぐみ、ブラックバード,椋鳥 鶸など。
ここ何カ月かずっと調子がよくない。朝早く起きて下に降りて鳥の餌台をだすことが私を生かし起き上がる
理由になっている。
最悪の苦闘は 時々起き上がる理由など何もないじゃないかと思うことであった。

然し今はこうして日記を少しは書けるし、いわば仕事着を着て機能的な人間に代わった。
生活者としての私に強制的に変えてしまった。最高の時。

◆五月二十四日  木曜日◆
 太陽が出た!この二十日間の雨と霧と小雨、冷たい東風、五月にこんなことはなかった。

新しい木々の葉を太陽が照らすのを見られないなんて、私の寝室の白い壁に太陽光線の旗が閃めいて起こされない
なんてこと考えられなかった。この私の書斎から荒々しい青い海へ向けて輝くエメラルドの小路がカーブしながら
野原を下っていくのを見られないなんて。

この間中 私はおかしな地獄の辺土にいるようで、頭の中の悪魔が天気の悪魔と出会って我々を

捕まえているようだった。
さて今はテラスの庭を見廻ってなにが出てきているかを見て、じきにナンシーと一緒に恒例の多年草仕入れの

ための巡礼に行く。凍りついた十二月のために、をだまきはみんな死んでしまったので、どうしても
もう一度植えたいと思うのがまた一つの理由でもある。

多くは花盛りだ__白すみれはどの場所でも垣根に沿って豊かな境界線を作っている。

ふつうの芍薬は生き返ったが、牡丹は私の大きな楽しみなのに随分痛んでいる。ほんの二三本のしっかりした
木の茎にすこししか蕾をつけていない。私は一つずつ調べてみた、特に白色のは大丈夫だ。恐ろしいことだ。
いくつかのアイリスは蕾だ; バラ等もピンクの皺の多い葉の山を除いては死んでしまった。
モザイクのようにぬけおちているが、それでも見事になるだろう。

 おそらくこの頃の私の生活のようだ。私はなんとかよくなってきた、息苦しさも少なくなってきたし、

何カ月も眠れなかったのに静かに眠れるし、人と会うのも楽しい。これは進歩だ。
今は半時間以上の無駄話はしない。友人と会ってランチやお茶の後で有意義な会話をするのが私にできる
一番の創造的なことだ。

 しかしその日は何処へ行ったのか? 殆ど得る物は何もない。

私はこういうことを書きましょうと想像しながら机の前に座る夢を見ながらそれでも何もできていない。
私は良くなった。しかし頭が良くない。
考えることと表現する言葉トの間にギャップがある。それで考えはふらついてしまう。

ENDGAME(1)前書き、1990年5月3日

最後の闘い(仮題)
   13年間私の秘書となり、図書係りとなり、私の仕事への献身的な友人として働いてくれた
  ナンシー ハートリーに
  やあようこそ!そしてさようなら!(高沢)

まえがき(以下吉川訳)
 かねがね私の79歳の誕生日から、80歳の誕生日までの1年間の日記を書いてみたいと思っていた。

年老いても未知の努力や驚きに向かって、喜びや、問題点を考えながら、哲学的な日記を書いてみたい。
恒常的な痛みはあるし、体は弱っていく。先の見えないことでもがき苦しむかも知れない。
50ポンドも体重は減り、もう庭仕事もできない。労働記念日などもうお呼びでない。
1ヶ月か2ヶ月でよくなるだろうと思っていたが、三月の終わりごろ、もう絶対良くなることなどないんだと、
未来はもはやない、と思えてきた。

 悪いところとは第一心臓が弱っている、第二に左肺に水が溜まり息苦しい(三ヵ月に一度水を抜かなくてはいけない)、第三に絶望から来る過敏性の腸、それで毎日六時間から八時間必ず痛みが襲ってくる。

そのために二,三回入院もしたが、痛み止めを処方するだけで、助かるけれども良くならない。
医者は持病の痛みなどには興味を示さない。ダイエットしろとすら言わない。

 四ヵ月後の九月三日労働日には、もうタイプさえ打てなくなった。スーザン・シャーマンとナンシー・トレイの

助けを借りてカセットレコーダーに吹き込み、ナンシーがそれを書き取ってくれることになった。
しかし、私の書き取りが、ヘンリー・ジェイムスが最後に行ったように、難しく混迷したものにならないようにと願ったが、結局そうなってしまった。ああ!なんてことでしょう!

 ここ何週間か口述したものを直したり、読み返したりして最初は戸惑ってしまった。

時々文章になっていないところがある。勿論それは直せるけれど、どれだけ病気がかかわっているかが問題である。
なんてつまらない、痛みの中にとじこもってしまって。
もっと大事なことは、この日記には強い強い想像的イメージがないことである。詩人はイメージの中で思考する、
と私は常に云ってきた。しかし発作を起こしてからは、私は意識の中に何かが閉じ込められたようである。
五年もたつのに、レコードを聴くことができない。それらがロックした場所を開き、涙が溢れて止まらなくなるから。

 それでもこの日記を出版すべきだろうか?鈍くなり年老いたサートンがもたらすどんな価値がこの日記にあるだろうか?ここからあふれるでてくるものに価値があると考えたい。持病を持った年老いた女性が一年をどう過ごしたか、

老いて病んで海のそばに住むのはどんなだったか どうやって人に頼ることを学んでいったか。
たぶんこのENDGAMEは悩みを抱えた方々に慰めになるだろう。

 私にとってはこれは救命者のようなもので、誕生日の次の日から、もう一冊の日記を始める。

わたしの周りで何が起きているのか、私の内面はどうなっているのか見極めて締めくくる必要がある。
 生きるということは目的なしでは、空しいものである。





◆一九九〇年 五月三日◆
 私の78歳の誕生日。やっと太陽の光りを見て嬉しいとは信じられない。木の周りに水仙が優雅に咲いて、

閉じ込められた冬から解き放たれて、何もかもが花開こうとしている。みんな生き返ったようだ。
こんな言葉を少し書くだけでも私にとっては大変なことである。何ヶ月もの病気のあとで、
心臓はもうこれ以上書くのを許さない。葉書でさえ、ヘラクレスのような力が要る。
五時頃ベッドの中では、ピエロー豪華なヒマラヤ猫ーが外に出る時間なので、出してやり、戻ってきてから、
すばらしい葉書を書くつもりだったが、とても書くことなどできない。
その前に鳥の餌台を出して、窓辺の植物に水をやり、自分の朝食の用意をし、済んだら片付けてベッドを作り、
着替えをすると、私の力は使い果たされてしまう。

 本当のところはわからないけれども、処方された心臓の薬の副作用が何か影響しているのだろうか?

きちんと目覚めている気がしない。風の音でも起き上がったり、ただ夜は別だ。
うっとりする様なねむり蛙の鳴き声に眠りを妨げられるけれど、静寂の冬の後で、
何時間でも聞いていたくなるほど嬉しいことである。

 この日記を誕生日にはじめるつもりだったが、クリスマスの後とか、イースターの頃とかに試みてみたら、

頭の中に何か起こっていて、表現する言葉が出てこないということに関連があるように思われる。
私は頭のCATをとってみたが、脳に異常はみつからず、素晴らしい医者のペトロヴイッチがいうには、
「ただ心臓が非情に疲れている、今までの力はなくなっている。」と。そこで私は半人前の生活。
半病人の生活をすることになった。先月は、私の物書きとしての生活はおそらく終わったこと、
人の助けを借りることを学ばなければならないことで、苦しんだ。

JOURNAL OF SOLITUDE 独り居の日記

メイ・サートンの主著とも云うべきJOURNAL OF SOLITUDE(武田尚子さんの邦訳「独り居の日記」(みすず書房)は207ページ)は1973年、著者メイ・サートン61歳の時に発表された58歳のサートンの1年間の日記である。

  1970年9月15日から書き始められ、翌年9月30日に終わる。
書かれた日記の日付にして、84日。日本にはじめて紹介されたのは1991年秋のことだった。


 内容は素晴らしく、サートンの人生観、社会観、女性観のすべてが、美しい文章と深い思索の結晶となって詰まっている。今年も残り少なくなったが、、会では来春から、この作品を中心に、原書の詩的な味わいをも鑑賞しつつ、いよいよサートンの真髄に触れていきたい。