最後の闘い(仮題)
13年間私の秘書となり、図書係りとなり、私の仕事への献身的な友人として働いてくれた
ナンシー ハートリーに
やあようこそ!そしてさようなら!(高沢)
まえがき(以下吉川訳)
かねがね私の79歳の誕生日から、80歳の誕生日までの1年間の日記を書いてみたいと思っていた。
年老いても未知の努力や驚きに向かって、喜びや、問題点を考えながら、哲学的な日記を書いてみたい。
恒常的な痛みはあるし、体は弱っていく。先の見えないことでもがき苦しむかも知れない。
50ポンドも体重は減り、もう庭仕事もできない。労働記念日などもうお呼びでない。
1ヶ月か2ヶ月でよくなるだろうと思っていたが、三月の終わりごろ、もう絶対良くなることなどないんだと、
未来はもはやない、と思えてきた。
悪いところとは第一心臓が弱っている、第二に左肺に水が溜まり息苦しい(三ヵ月に一度水を抜かなくてはいけない)、第三に絶望から来る過敏性の腸、それで毎日六時間から八時間必ず痛みが襲ってくる。
そのために二,三回入院もしたが、痛み止めを処方するだけで、助かるけれども良くならない。
医者は持病の痛みなどには興味を示さない。ダイエットしろとすら言わない。
四ヵ月後の九月三日労働日には、もうタイプさえ打てなくなった。スーザン・シャーマンとナンシー・トレイの
助けを借りてカセットレコーダーに吹き込み、ナンシーがそれを書き取ってくれることになった。
しかし、私の書き取りが、ヘンリー・ジェイムスが最後に行ったように、難しく混迷したものにならないようにと願ったが、結局そうなってしまった。ああ!なんてことでしょう!
ここ何週間か口述したものを直したり、読み返したりして最初は戸惑ってしまった。
時々文章になっていないところがある。勿論それは直せるけれど、どれだけ病気がかかわっているかが問題である。
なんてつまらない、痛みの中にとじこもってしまって。
もっと大事なことは、この日記には強い強い想像的イメージがないことである。詩人はイメージの中で思考する、
と私は常に云ってきた。しかし発作を起こしてからは、私は意識の中に何かが閉じ込められたようである。
五年もたつのに、レコードを聴くことができない。それらがロックした場所を開き、涙が溢れて止まらなくなるから。
それでもこの日記を出版すべきだろうか?鈍くなり年老いたサートンがもたらすどんな価値がこの日記にあるだろうか?ここからあふれるでてくるものに価値があると考えたい。持病を持った年老いた女性が一年をどう過ごしたか、
老いて病んで海のそばに住むのはどんなだったか どうやって人に頼ることを学んでいったか。
たぶんこのENDGAMEは悩みを抱えた方々に慰めになるだろう。
私にとってはこれは救命者のようなもので、誕生日の次の日から、もう一冊の日記を始める。
わたしの周りで何が起きているのか、私の内面はどうなっているのか見極めて締めくくる必要がある。
生きるということは目的なしでは、空しいものである。
◆一九九〇年 五月三日◆
私の78歳の誕生日。やっと太陽の光りを見て嬉しいとは信じられない。木の周りに水仙が優雅に咲いて、
閉じ込められた冬から解き放たれて、何もかもが花開こうとしている。みんな生き返ったようだ。
こんな言葉を少し書くだけでも私にとっては大変なことである。何ヶ月もの病気のあとで、
心臓はもうこれ以上書くのを許さない。葉書でさえ、ヘラクレスのような力が要る。
五時頃ベッドの中では、ピエロー豪華なヒマラヤ猫ーが外に出る時間なので、出してやり、戻ってきてから、
すばらしい葉書を書くつもりだったが、とても書くことなどできない。
その前に鳥の餌台を出して、窓辺の植物に水をやり、自分の朝食の用意をし、済んだら片付けてベッドを作り、
着替えをすると、私の力は使い果たされてしまう。
本当のところはわからないけれども、処方された心臓の薬の副作用が何か影響しているのだろうか?
きちんと目覚めている気がしない。風の音でも起き上がったり、ただ夜は別だ。
うっとりする様なねむり蛙の鳴き声に眠りを妨げられるけれど、静寂の冬の後で、
何時間でも聞いていたくなるほど嬉しいことである。
この日記を誕生日にはじめるつもりだったが、クリスマスの後とか、イースターの頃とかに試みてみたら、
頭の中に何か起こっていて、表現する言葉が出てこないということに関連があるように思われる。
私は頭のCATをとってみたが、脳に異常はみつからず、素晴らしい医者のペトロヴイッチがいうには、
「ただ心臓が非情に疲れている、今までの力はなくなっている。」と。そこで私は半人前の生活。
半病人の生活をすることになった。先月は、私の物書きとしての生活はおそらく終わったこと、
人の助けを借りることを学ばなければならないことで、苦しんだ。
アメリカで活躍した詩人メイ・サートン オーストラリア、シドニーで活躍した童話作家メイ・ギブス 長い生涯を節を曲げることなく個性豊かに生き抜いた二人のメイ。性格も傾向も異なるが、サートンばかりでなく、アーティスト、ギブスのこともまた、書きたいと考えている。
★★★ メイ・サートンのプロフィール ★★★
★★★ メイ・サートンのプロフィール ★★★
1912年、ベルギーに生れる。4歳のとき両親とともにアメリカに亡命。
1973年、両親の遺産をもとにニューハンプシャー、ネルソンに30エーカーの土地と老屋を買って住み、発表した「独り居の日記」で、脚光を浴びる。やがて、メイン州、ヨークの海辺の家に移り住み、83歳で死ぬまで、次々と20冊に及ぶ作品を発表。女であること、芸術家であること、の自覚をもって、女にとっての創造の源泉を探り、真実に生きることの意味を問い続け、自分自身である事の勇気を語り続ける著作は、多くの読者を得、「アメリカの国宝」とまで絶賛されているという。1995年、ヨークの病院で死去。
翻訳によって彼女の作品を最初に日本に紹介したのはアメリカ在住の武田尚子さんで、「サートンによって世界を見る新鮮な目を与えられ、生きる勇気を与えられるに違いない多数の読者の存在することを、確信している」とあとがきに書いておられるが、事実、日本語版「独り居の日記」は、その後も地下水脈のように愛読者が絶えず、15版を重ねているという。私がこの本と始めて出会ったのは1991年の暮ごろ、出版の約1ヵ月後、大阪、梅田の旭屋書店だった。ふと手に取り、読んでみてすぐ購入した。渇いた者が水を飲むように・・。以来この書は私の座右の書となっている。
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1912年、ベルギーに生れる。4歳のとき両親とともにアメリカに亡命。
マサチューセッツ州、ケンブリッジで育つ。父は著名な科学史の学究として、ハーバードで教え、イギリス人の母は画家、デザイナーでもあった。若くして劇団を主宰するが、やがて、1938年最初の詩集を出してより、著作に専念。多くの詩集、小説や自伝的作品、日記、を発表。
1973年、両親の遺産をもとにニューハンプシャー、ネルソンに30エーカーの土地と老屋を買って住み、発表した「独り居の日記」で、脚光を浴びる。やがて、メイン州、ヨークの海辺の家に移り住み、83歳で死ぬまで、次々と20冊に及ぶ作品を発表。女であること、芸術家であること、の自覚をもって、女にとっての創造の源泉を探り、真実に生きることの意味を問い続け、自分自身である事の勇気を語り続ける著作は、多くの読者を得、「アメリカの国宝」とまで絶賛されているという。1995年、ヨークの病院で死去。
翻訳によって彼女の作品を最初に日本に紹介したのはアメリカ在住の武田尚子さんで、「サートンによって世界を見る新鮮な目を与えられ、生きる勇気を与えられるに違いない多数の読者の存在することを、確信している」とあとがきに書いておられるが、事実、日本語版「独り居の日記」は、その後も地下水脈のように愛読者が絶えず、15版を重ねているという。私がこの本と始めて出会ったのは1991年の暮ごろ、出版の約1ヵ月後、大阪、梅田の旭屋書店だった。ふと手に取り、読んでみてすぐ購入した。渇いた者が水を飲むように・・。以来この書は私の座右の書となっている。
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